2008年07月30日
へぇ~な琉球仏教史
琉球では寺や仏教の取り込みは日本に依存していた。これに対して、中国との関わりは久米に移り住んできた渡来人が任されていた。実は、これは琉球王府の政策であった。当時の王府は「万国津梁の鐘」に代表されるように、琉球を南の孤島などと悲観視せず、東アジア地域の架け橋、交易の中継地としてその存在価値を十分に理解していた。そこで、大口の取引先である日本とは僧侶を介してその窓口を開き、中国とは久米人を用い交易を重ねていた。面白いのは、この頃の中国は、日本よりもはるかに進んだ仏教国であった(この頃、多くの日本僧が中国に留学し、最新鋭の仏教を日本に持ち帰り、今日の日本仏教の礎を築いている)。多分、世界一の仏教大国であっただろう。久米人や朝貢貿易により、中国との深いパイプを持ちながらも、王府はなぜか宗教に関してはまったく中国に依存する事はなかった。これは仏教と言う文化を輸入する事で、日本との関係も大事にしたい王府が、政策として打ち出した方便なのだ。
知ってましたか?こんな事、学校では教えませんね。
ちなみに、これ、こんどの市民大学での講義からの抜粋
知ってましたか?こんな事、学校では教えませんね。
ちなみに、これ、こんどの市民大学での講義からの抜粋

Posted by リョウケイ at 10:46│Comments(0)
│法話